スノーシューで山毛欅の森を闊歩する。僕以外、誰もいない。ときおり枝から落ちる雪の音にドッキっとする。ドサッという音は、かなりの重量級である。まともに当たったらたいへんだ。ファインダーを覗きつつ、雪にも気を配りながらの撮影だった。
2022年01月10日
2021年05月02日
新緑の山毛欅
posted by 生出道憲 at 18:06| Comment(0)
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2019年09月19日
晩夏の山毛欅
9月も中旬を過ぎたというのに、下界では30度を超える日が続く。明らかに温暖化の影響なのだろう。いまだに冷房が恋しい日があるなんて・・・。そんな異常な天候でも山は一雨ごとに秋らしさを感じさせてくれる。大きな山毛欅の足元には赤や白の小さなベレー帽が顔を出している。色付きのピークはもう少し先になるだろうが、どことなく深緑にも黄色が混ざってきたようだ。
posted by 生出道憲 at 20:42| Comment(0)
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2019年08月17日
緑の衣
それにしても暑い。最高気温が40度越え、なんて言う報道に接し、とうとう来るところまで来たかと半ば諦めている。もう元の環境に戻ることはないのだろう。そんな暑さの中、ブナはどうしているのだろう?気になって、ちょっとのぞいてみた。緑の衣をまとい暑さから身を守っている?そんなことはない(笑) でも見た目には涼しそうに見えたのだ。
posted by 生出道憲 at 21:14| Comment(0)
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2018年10月22日
赤崩の山毛欅
以前から気になっていた山毛欅を、今回は斜面を下って三脚を立ててみた。傾斜はどのくらいなのか正確なところはわからないが、かなり踏ん張らないと転げ落ちてしまう。陶器にも表と裏があるように、樹にも当然それがあって、この樹に関しては、こちらが表の顔である。なぜならば立派なへそがこちら側に付いているからである。
posted by 生出道憲 at 08:28| Comment(0)
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2018年09月09日
晩夏の森
9月に入り、やや涼しさを感じる時間が増えてきたようだ。とはいうものの、日によっては真夏日になることもあるので、まだまだ暑さへの油断はできない。森の中は晩夏の風情である。深緑に幾らか黄色が入ってきたようだ。今夏の猛暑、酷暑に耐えた山毛欅の幹を二度、三度と叩いて「よく頑張ったな」とねぎらった。秋には見事な色付きを見せてくれよ。
posted by 生出道憲 at 21:47| Comment(3)
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2018年06月19日
自然の時間
この山毛欅も下の樹と同様、かなりの時間を森の中で過ごしていた。過去形なのは・・・残念ながら数年前に土に還ってしまったからだ。時間の塊だった樹が倒れ、ゆっくり土と同化していくプロセスを想像するのも魅力的だ。ゆっくりだけど着実に進む自然の営み。人が感じる時間の概念とは異なる流れ・・・。僕らの短い一生で出会うのは、自然の営みの刹那でしかない。
posted by 生出道憲 at 12:38| Comment(0)
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2017年02月20日
春を待つ
二月も後半近くになると、日によっては春を思わせる日が続くことがある。先週のニュースでは、あまりの暑さのため「かき氷」を求める人の行列の映像が流されていた。一瞬、目を疑ったが、それは紛れもない事実。いったいどうしちゃったのと思わず呟いてしまった。
頭と身体を冷やすために、いつもの山毛欅の森に入る。何回かの大雪に見舞われた裏磐梯であるが、雪害による枝折れもほとんどないようでホッとした。指先、足先がジンジン冷える。流れる雲が季節を運んでくるのだろうか。青空の色にどことなく春を感じた。そう、季節はゆっくり、そして少しずつ変わっていけばいいのである。
posted by 生出道憲 at 08:15| Comment(0)
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2015年07月10日
雫の森
森は海に似ているな、と思うことがある。一滴の雫が集まって川になり、やがては海になる。
森は目に見えない小さな微生物、熊やカモシカなどの大型の獣、そして名も知らぬ虫や植物たち、果ては樹齢数百年の巨木など、多くの生命が運命共同体のごとく深いつながりで成り立っている。森に集うたくさんの生命達を、それぞれ一滴の雫とすると、森は海に似ていると思ったのだ。
森の中に生きるひとつひとつの生命の結びつきをうらやましいと思う。
僕が森の中に足を踏み入れるのは、彼らの素敵な結びつきに少しでも近づきたいというささやかな願望があるからだ。しかし現代に生きる我々にとって森の中に入ることはすでに非日常的な行為なのである。
多くの人が無言で行きかう交差点で、僕は森のことを考えていた。
豊かで便利な生活を否定するものではないが、森の中に入る時間が多くなるにつれ、自分の居場所が人間社会にはなくなってしまうような気がして・・・。
樹齢300年は経っているであろう山毛欅に会いにいった。空を隠すかのように広げた枝には緑がまぶしいほど輝いていた。僕は、森の中の雫に、ほんの一瞬だけど近づけたような・・・そんな錯覚をした。
森は目に見えない小さな微生物、熊やカモシカなどの大型の獣、そして名も知らぬ虫や植物たち、果ては樹齢数百年の巨木など、多くの生命が運命共同体のごとく深いつながりで成り立っている。森に集うたくさんの生命達を、それぞれ一滴の雫とすると、森は海に似ていると思ったのだ。
森の中に生きるひとつひとつの生命の結びつきをうらやましいと思う。
僕が森の中に足を踏み入れるのは、彼らの素敵な結びつきに少しでも近づきたいというささやかな願望があるからだ。しかし現代に生きる我々にとって森の中に入ることはすでに非日常的な行為なのである。
多くの人が無言で行きかう交差点で、僕は森のことを考えていた。
豊かで便利な生活を否定するものではないが、森の中に入る時間が多くなるにつれ、自分の居場所が人間社会にはなくなってしまうような気がして・・・。
樹齢300年は経っているであろう山毛欅に会いにいった。空を隠すかのように広げた枝には緑がまぶしいほど輝いていた。僕は、森の中の雫に、ほんの一瞬だけど近づけたような・・・そんな錯覚をした。
posted by 生出道憲 at 19:35| Comment(0)
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2015年05月31日
山毛欅
山毛欅で「ぶな」と読む。木へんに無しの「橅」とも表記されるのだが、僕としては山毛欅の方がしっくりくる。
ガサゴソと森の中を10分も歩けば、この山毛欅に会うことが出来る。いつだって黙って僕をむかえてくれる。そう、木はいつも無口なのだ。
むかしむかし人生の師から聞いた話。「木のように黙って立って、お前を見つめるのが親だ」と。「親という字は、親のあるべき姿を示している」のだとも。なるほど・・・子に対してつべこべ言わず、ただ見ることだけで子を諭す。実際、そんな親はいないだろうけど・・・ね。
さて、くだんの山毛欅であるが、相変わらず無口である。だけど・・・この山毛欅の下に立つと、僕の全てを見透かされているようで恐いのだ。僕よりも遥かに永い時間を生きている先輩である。所謂「上から目線」とは違う威厳ある目力を感じる。自然の全てを知り尽くしている、人間(お前)の所業などタカが知れているんだよと云っているようだ。僕は思わず立ちすくんでしまう。
僕にとって山毛欅は単なる木では無いのである。
posted by 生出道憲 at 21:23| Comment(0)
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