2015年07月10日

雫の森

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森は海に似ているな、と思うことがある。一滴の雫が集まって川になり、やがては海になる。

森は目に見えない小さな微生物、熊やカモシカなどの大型の獣、そして名も知らぬ虫や植物たち、果ては樹齢数百年の巨木など、多くの生命が運命共同体のごとく深いつながりで成り立っている。森に集うたくさんの生命達を、それぞれ一滴の雫とすると、森は海に似ていると思ったのだ。

森の中に生きるひとつひとつの生命の結びつきをうらやましいと思う。

僕が森の中に足を踏み入れるのは、彼らの素敵な結びつきに少しでも近づきたいというささやかな願望があるからだ。しかし現代に生きる我々にとって森の中に入ることはすでに非日常的な行為なのである。

多くの人が無言で行きかう交差点で、僕は森のことを考えていた。

豊かで便利な生活を否定するものではないが、森の中に入る時間が多くなるにつれ、自分の居場所が人間社会にはなくなってしまうような気がして・・・。

樹齢300年は経っているであろう山毛欅に会いにいった。空を隠すかのように広げた枝には緑がまぶしいほど輝いていた。僕は、森の中の雫に、ほんの一瞬だけど近づけたような・・・そんな錯覚をした。
posted by 生出道憲 at 19:35| Comment(0) | 山毛欅

2015年07月06日

ヒメサユリ

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福島県内でヒメサユリ(オトメユリ)の群生地として有名なのは、旧熱塩加納村(現喜多方市)、旧南郷村(現南会津町)、西会津町の三ヶ所だ。それぞれ「ヒメサユリまつり」を開催していて観光客誘致に取り組んでいる。節ともなれば県内外からドッと観光客が雪崩れこむ。

訪れる観光客の話を何気に聞いていて、いちばん多かったのが「わらびがたくさんある」であった。それに応えるのが花を管理している町の人たち。「わらびの根には毒があるのでモグラやねずみからの食害を防いでいるんです」、そんなやりとりを耳にタコが出来るほど聞いた。

そして次に多かった声が「毛虫がたくさんいる」であった。これはマイマイガが異常発生したためである。静かな山の中、あちこちから女性の悲鳴がこだまする。いつの間にか動くアクセサリーとして2〜3匹を身に付けている人もいた。ヒメサユリにも、地面のいたるところにも、それこそあちこちでうごめいている。尋常な数ではない。不運にも枝からぶら下がった彼らとお見合いする人も・・・。逃げ場がない、そんな感じである。

わらびと毛虫のインパクトが強くてヒメサユリを見た印象がかき消されてしまうのでは・・・と僕は心配していたのであった。
posted by 生出道憲 at 07:25| Comment(0) | ヒメサユリ

2015年06月24日

幕滝

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「那智の滝」といえば、滝そのものがご神体として知られている。山や木、岩など自然のモチーフに神が降臨するという発想は日本人的な宗教観といえるだろう。滝、岩、樹木が神なのではなく、神の象徴としてそれらを崇めるスタイルだ。自然の大きな力の前では無力な人間である。何百年、あるいはそれ以上存在し続ける自然のモチーフに畏敬の念が芽生え「ささやかな生活をお守りください」と手を合わせるようになったのは、考えてみれば自然なことである。

自然に限らず日常生活の身の回り、台所や御不浄(トイレ)など何処にでも神は宿っている。慎ましやかな暮らしをしていれば、あらゆる恵みに感謝し、そこに宿る神のおかげと感じるのが道理であろう。日本人は、あらゆるところに神の存在を意識してきたのだ。

押入れを開けると・・・そこには「貧乏神」がいて、貧乏な暮らしは、そのご利益のたまものなのだ。ありがたや、ありがたや・・・である。
posted by 生出道憲 at 23:02| Comment(0) |

2015年06月13日

モリアオガエル

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頭上の枝にいくつもの卵塊ができていた。モリアオガエルが産卵の季節をむかえたのだ。すでに産卵のピークは過ぎていたようで、この日、目にすることが出来たのは4〜5組ほどのカップルだけであった。

モリアオガエルの繁殖地として国の天然記念物の指定を受けているのは、岩手県八幡平大場沼と福島県の平伏沼(へぶすぬま)の2ヶ所のみ。県によっては絶滅危惧種としてレッドリストに指定されている。

どんな動植物であっても、レッドリストに登録されてはじめて保護、保護と騒ぎはじめる。いつだって人の都合によって環境が壊され、彼ら自然の中で生きるものが犠牲になるのだ。

産卵に勤しむ彼らの姿を、僕は葉陰から気づかれないようにそっと見つめるのみである。
posted by 生出道憲 at 23:10| Comment(0) | カエル

2015年06月04日

睡蓮

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「睡蓮」といえば条件反射で印象派の画家「クロード・モネ」の名が浮かぶ。光を描く画家の作品は、写真、とくに自然を撮る者にとって大いに勉強になるものばかりだ。作品のみならず同じモチーフを季節を変え、時間を変え、異なる光の下で繰り返し作画し続けた姿勢も同様だ。

モネの代名詞である「睡蓮」は200点以上も作成されているという。

睡蓮に対峙する情熱はいったいどこから来たのだろうか?一瞬として止まることのない光を、絵画としていかに表現するか・・・。光を描く画家としての尽きることのない創作意欲、探究心が連作を生み出した大きな力となったのは想像に難くない。

もしモネが存命していたとしたら、きっと今日だってキャンバスに向かっていたに違いない。創造するという行為は立ち止まったら終わりで、続けることこそが表現をブラッシュアップする唯一の方法なのだろう・・・と怠け者の僕は、ただただ感心するだけである。
posted by 生出道憲 at 20:58| Comment(0) | 睡蓮

2015年05月31日

山毛欅

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山毛欅で「ぶな」と読む。木へんに無しの「橅」とも表記されるのだが、僕としては山毛欅の方がしっくりくる。

ガサゴソと森の中を10分も歩けば、この山毛欅に会うことが出来る。いつだって黙って僕をむかえてくれる。そう、木はいつも無口なのだ。

むかしむかし人生の師から聞いた話。「木のように黙って立って、お前を見つめるのが親だ」と。「親という字は、親のあるべき姿を示している」のだとも。なるほど・・・子に対してつべこべ言わず、ただ見ることだけで子を諭す。実際、そんな親はいないだろうけど・・・ね。

さて、くだんの山毛欅であるが、相変わらず無口である。だけど・・・この山毛欅の下に立つと、僕の全てを見透かされているようで恐いのだ。僕よりも遥かに永い時間を生きている先輩である。所謂「上から目線」とは違う威厳ある目力を感じる。自然の全てを知り尽くしている、人間(お前)の所業などタカが知れているんだよと云っているようだ。僕は思わず立ちすくんでしまう。

僕にとって山毛欅は単なる木では無いのである。
posted by 生出道憲 at 21:23| Comment(0) | 山毛欅